山形東濤会「健康を確かめ合う会」が開催されました
令和6年4月11日は春めいたのどかな日だった。心も明るく気分的にも家の外に
出たくなる気候の夕方5時半から山形市香澄町の「味の店スズラン」において
山形東濤会の「健康を確かめ合う会」と称する集まりが開かれた。
ここ3年ほど集まることも出来ず悶々としていた山形東濤会会員たちが久しぶりに
友の顔を見られるという事で定刻には全員集合となっていた。
県外の仙台からも数名参加してくれて座をにぎやかにしてくれた。
参加者数は27名となり部屋いっぱいになる状態だった。
会は岡田事務局長の進行で会は進んでいった。
先ずは今日までに亡くなった我々の仲間を偲んで黙とうとなったがこれまでとは異なる
複雑な気持ちが各自の顔に表れていたのが印象に残った。
続いて秋葉山形東濤会会長の挨拶となった。
次は佐藤東濤会会長の挨拶となった。
乾杯の音頭は日頃、我々の健康相談の窓口となり健康アドバイスをしてくれている
医師のA君が行ってくれた。
料理は丁度我々年代にとって適切な量とメニューであった。
昔のようにバンバン食べて、グイグイ飲むなどという事は全員無理のようだった。
当たり前だ、82にもなってという声が聞こえてきそうだ。
腰の手術により以前よりも更に頑丈になったY.K君が健康の大切さを
語っている。仙台のR.K君らもわが身につまされるのか熱心に聞いていた。
次の写真のT君は今も現役バリバリの果樹農家として活躍している。
とにかくこの年で農業をやるということは本当に大変なことである。
ましてや彼の場合は人手を借りないで自分の力だけで毎日やっているのだ。
頭が下がるだけである。こういう人が我々仲間の内にいるということは我々の
誇りである。
彼の右隣のM君は大型鉄道ジオラマを製作して自宅に設置している。その様子は
このホームページで紹介しているのでご承知と思う。その彼が再び製作活動を
開始したとのこと。新しい鉄道ラインで実現するとのことなので楽しみである。
今回は恒例の謡が無かったのが物足りなかった。この次はあることを期待したい。
編集していて気が付いた。彼は何を持っているのだろうか。
それとも持ったつもりでいるのだろうか。何回見ても不思議な光景だ。
U君もわざわざ仙台から駆けつけてくれた。ご苦労様です。
この部屋に飾ってある絵は当館の大女将の描いた絵である。この人と
同じグループで私は水彩画を習っている。私は彼女の足元にも及ばないが。
ちなみに料理のお膳に載っている料理の名標は大女将の娘婿が書いたものである。
彼の書は達筆で有名である。
しばらくぶりの再会でみんなの心が和み明日への生きる力が湧いた本会で
あった。しかし、閉会の時というものは容赦なくやってくる。
本会は毎回山形東濤会会長による締めのエールで終わるのだが果たして
実現するのかを全員疑問視していたが今回も元気にエールをしてくれることと
なった。いつまでもこの光景が見れることを願っている。
それにしても我々の会が開催されるたびに最も大事な仕事をやってくれている
のがこの人である。確実に会費を徴収してくれるので出す方も受け取る側も
安心して十分飲める体制に入れる。この会の守り神である。彼の他には安心して
現金を預かってもらえる人間は見当たらない。この会が長続き出来たのも彼の
おかげであると感謝の一言である。
以上が当日の集まりの様子の紹介でした。
集まったメンバーは各自それぞれ身体の故障はあるものの気持ちだけは皆元気で
お互いが勇気を貰い合い明日からも頑張るぞという気持ちになっていた。
最後に会長より秋には恒例の芋煮会をやるぞぅという宣言がなされた。
これでまたお互い秋には会えるんだという希望の光が各自が感じていたようだった。
今回、久しぶりに宴会をしたのだが感じたことがあった。それは人手不足とは聞い
ていたがこれほどとは思わなかった。実は乾杯のビールがなかなか来ないので
賄い場に様子を見に行った。
そしたら我々とあまり年の違わないご婦人2名がてんやわんやで準備をしていた。
一人がビールの準備をすれば後の一人が料理の配膳だ。これでは無理だ。
とにかく人が居ない。見かねて我々が手伝う形で何とか乾杯が出来た。
後で若女将と話をしたら世相では宴会開催の機運が一気に高まったが肝心の賄う人が
絶対的に足りないとのこと。コロナ禍で一度店を去った人はやはり戻ってこないとの
ことだった。
でも何とか心優しい山形東濤会会員たちの協力で我々の宴会は何とか終えることが
出来た。
この後は年寄りの飲みすぎは良くないということで早めの散会となった。
久しぶりの楽しい会で会った。
ViVa東濤会 !!
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