悲劇の大川小学校を弔問する
平成24年8月23日
これまで被災地を訪れて状況をつぶさに見て、その悲惨な事実が忘れられないように
願いリポートを通して皆さんに訴えてきたが自分としてはなかなか行く気になれないが、
しかし行かなければならない場所として大川小学校が残っていた。
このたび決心して訪れてみることにした。
この地点は私が昭和50年代に石巻経由で気仙沼に行く時にはいつも通っていた地域であ
る。
石巻市を流れる旧北上川を分岐して開削して新しい北上川となった大河のほとりが
今回の悲劇の地になった。
この地域は北上川がまもなく海に入ろうとする地帯で雄大でゆったりとした雰囲気を有し
ている。平常はとても平和な地域である。
私もここが大津波に襲われたと聞いても最初は信じられなかった。なんであそこが?という
気持ちだったが恐らく地域の人もそのような気持ちだったと思う。
次の写真は大川小学校の全体の光景である。
左が北上川、右は山である。山は相当の傾斜で小学生が一人で登るのは無理である。
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この写真を見て誤解してもらいたくないのは大津波当時とは全く異なるということである。
この一帯は当時はものすごい瓦礫で埋まりすべてが地獄のような状態だったのであ。
やはり時間が過ぎてしまうと当時の記憶は急速に薄れていく。そのためにも早期の記録が
必要なのである。その点私の今回のこの訪問は遅かった。反省している。
次の写真の左側は北上川である。学校周辺には高い建物や高台は山を除けば何もない地で
ある。
山は前述したように急傾斜である。さあ自分だったらどうすると自分に問いかけた。
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山に前もって登山道が切ってあれば何とか登れたろうが私も近くまで行ってみたが私でさえも
とても登れる山ではなかった。
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水は屋根を越えて迫ってきたわけだからその時の恐怖心いかばかりであったかと思うと
心が痛くなった。
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次の写真は別棟の建物と本校舎が接続される渡り廊下の部分であるが頑丈な鉄筋コン
クリート製の構造物が見るも無残にねじり倒されている。すさまじい破壊力である。
この光景はあまりテレビでの放映は無かった。それはこの辺は大量の瓦礫の山になっていて
このように全容が現れてきたのは震災後大分経ってからだったためである。
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さて現在の状況であるが学校の前には弔問のための慰霊壇が用意されているが訪れる人は
ひっきりなしである。
この時も多くの弔問者が来ていたが静岡や神奈川等の県外ナンバーが多かった。
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弔問者は若い人が多かった。
ここでは誰もが声もなくただ無言で唖然と空を仰いでいる姿が印象的であった。
まだ見つからない子もいる。何と言っていいのだろうか。私もただ声もなく立ちつくすだけであ
った。
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前述したようにここにはなかなか来る気持ちになれなかったのだが来て見て心のつかえが取れた
ようだ。改めて来て良かったと自分に言い聞かせた。合掌!
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