「慶安の変」の丸橋忠也の居住跡が我が町内近くに
平成21年12月21日
慶安4年(1651年)に起きた由井正雪の乱で首謀者の一人として名高い丸橋忠也の
住んだ所として昔から伝えられている場所が我が町(宮町)の近くにある。
そこは現在丸橋神社と呼ばれている場所である。
いつもはただ黙って通り過ぎるだけだったが今回寄ってみたらブルーシートが懸けら
れて工事用の足場が組まれていたのでこれは解体かなと思い慌てて写真を撮った。
でもよく見ると修理のようで安心をした。
とにかく我が町はどんどん古い施設・建物が解体されておりあっという間に町の景色が
変わってしまう状況だ。そして前の様相がどうだったかということをどうしても思い起こ
せないことがしばしばである。
このため町内会役員の間で現在の街並みを写真で保存しておこうという機運が起こり
私もその一翼を担おうとしている。
さて、肝心の丸橋忠也であるが宝蔵院流槍の名人として名高く由井正雪の片腕として
組織をまとめたらしい。
最後は計画が露見して捕縛され刑場の露と消えた人物である。
何故彼がここ出羽の地に居住していたかという疑問が湧くが調べてみると次のようであ
る。
関ヶ原の戦いで西軍に組した京都の長曾我部盛親が藤枝という妾に二人の男子を生ま
せたが弟は自分の父の故郷最上(今の山形近辺)に逃れた。
藤枝の父が丸橋姓であった。
男子はここで成長し忠也盛澄と名乗ったとのこと。
やがて知人の惹きで江戸に出て幕府中間頭大岡源右衛門の長屋に住し忠治が得意と
した槍術の道場を開いたとのこと。
これが由井正雪との出会いにより表記の「慶安の変」に巻き込まれていくわけである。
辞世の句は「雲水のゆくへも西の そらなれや 願うかひある道しるべせよ」
墓所は、東京都豊島区高田の金乗院と品川区妙蓮寺。
次の案内板が山形市の管理下で設置されている。
屋根の先端は武道館のような金ぴかのタマネギである。
さて、結果として彼らの企ては挫折したわけだが行おうとした幕府転覆理由の要求の内、
諸藩の浪人召し抱えを増やすことと各藩が恐れていた末期養子の禁令緩和等が施行
されて結果的に実現したことになる。
実はこの事件は実際は幕府に批判的であった紀州藩主徳川頼宣へのけん制に利用さ
れたこともあり実際は相当に複雑な背景があったことは事実であり歌舞伎で演じられる
ような単純なものではなかったようである。
この事件は家光が亡くなった(1941年4月逝去)すぐ後の4月から7月にかけて起こった
事件である。
このことは家光の生前に実際の弟である保科正之が正室の子ではなかったため命を狙
われ密かに転々と住居を移し最後は長野の高遠にかくまわれたような時代背景もからん
だ大変スケールの大きな事実だといえる。
保科正之は後に山形藩主として立派に努められ名君と言われた。
この後には享保13年(1728年)の天一坊事件が起こることとなりこの辺の事実探求はとて
も面白いものがある。
さて丸橋神社所在地の地図を次に示す。ぜひ訪れてみて下さい。