高校教師三人
橘 朱果
四半世紀も前の、恩師の思い出話を書くのは、懐かしくかつ楽しいことである。しかし、
彼は高校時代、教室の隅っこで小さくなっていたから。個人的なかかわりにおける思い
出はない。
ただ壇上の教師を眺めるような傍観者的存在として教室に臨んでいた。
生徒の側から眺めた教師像として、幾人かを描いてみるだけである。それらの教師一人
一人がいかなる生活をし、どんな思いを抱いて生徒の前に出、授業をしていたかは、彼の
埒外にある。四半世紀の間、彼もまた高校の教師をつとめていて、思い出の壇上にのぼる
のは意外な先生方である。
最初にご登場願うのは、愛称で「文ちゃん」と呼ばれていた数学の教師である。
「三太郎の日記」で有名な阿部次郎の娘を妻としていた。子供三人居るうち、二人は
米国留学中で、一人は東大に在学中である、とよく自慢していた。こういうタイプの教師は
相手が若いことをいいことにして、得々として語るものである。もしそこが教室でなくもっと
公の場であったなら、まさかこんな風には話さないであろうと思われることが多いし、
聞いているのが高校生であっても気恥しくなることだってあるのだ。
しかし、どういうわけか、この「文ちゃん」だけはそういったことを感じさせなかった。
間もなく定年を迎えようとしており、丸顔の頭も白髪で一杯だったし、よくアメリカ映画に
出てくる太り気味の好々爺の農夫といった感じで、孫へでも語りかけるような話し方として
受けとられていた。
問題はすべて更紙に解いておき、黒板にそれを写しながら説明するといった、これ又若い
教師であればたちまちにして生徒の顰蹙を買う態の授業である。自分で予め解いてくると
思っていたが、あるいは教師用のトラの巻を写してきていたのかも知れない。時々、数字を
写し間違えたり、飛ばしたりするので笑いがもれることもしばしばあった。どう見ても半分
ボケかかっているとしか思えなかったし、それだけに又生徒の方も寛大に許して、むしろほ
ほ笑ましい風景として眺めていた。
そんな先生の自慢話であったから、得意になればなるほど、子供が優秀なのは案外奥さんの
せいではないかと推察された。なにしろ庄内における阿部家の優秀さは、つとに評判が高かっ
たから、その阿部家から嫁をもらったとなれば、子供の優秀さは母方からきているとみるのは
当然のことである。
先生もそれを認め妻の血統を自慢にし、息子を誇っていたのかも知れない。
この先生は別に宿題を出すわけでもなく授業を厳しく進めるわけでもない。居眠りしていよう
が、漫然と眺めていようが、自由である。逆に生徒の側の主体性が問われる。問われると言って
も先生が問うわけではない。主体的に数学の勉強に取り組んでいない限り、ついていけなくなる、
という点においてであって、この先生の側からすればついて来ようが来まいがほとんど無頓着だ、
ということである。強制がない代わり、本人がどれだけ真剣に取り組んだか、どうかが結果に
如実にあらわれてくるから、本当はこわい。
一年生の社会科の教師で、「そうげん」という先生がいた。「宗元」と書くのかは忘れたが
坊さんであったかどうかも定かでない。四十代で痩せぎすの小柄な先生であったが、大声で講義
調に説明しながら、黒板一杯むずかしい漢字を次々と書いていくのであった。これだけなら、
それほど印象に残らなかったであろう。
一つは何も見ないであのわずらわしい年号は勿論のこと、講義そのものを速記すれば教科書の
本文そっくりになるのだ。記憶力抜群で、何でも使用している教科書と別会社の教科書を丸暗記して、
漢字の部分のみ黒板に書いている、といううわさもあったくらいだ。ノートをとると、何と漢字ば
かりが並ぶ。黒板を四分の一に分けて横書きにビッシリ書いて、黒板一杯になると更に消して書い
ていく。しかも教科書から一歩も出ない説明ときては、これ又聞いても仕方のないような授業で
あった。ノートだって漢字ばかりではとっても仕方のないものだ。それをあえて聞き、ノートもとっ
たのは、先生の大声とその全身から漲る気迫に圧倒されてであった。
中には要領のいい人間もいて、受験参考書を開きながら、先生の講義するところにのみ赤いアンダー
ラインを引いて、要点と詳しい説明とを居ながらにして腑分けして聞いていた。
この先生があるとき、こんな体験談をしてくれた。
若い頃肺結核を病み、長く療養生活をした。医者からも見放されるほど病が重くなって、絶望の
どん底に落ちた。黙っていては死が訪れること確実だった。そこで、先生は一つの賭けにでた。
安静の生活から訓練の生活へと転換し、毎週山登りをするという。荒療治に生命のすべてを賭けた
のである。
それが幸い功を奏して、奇跡的に回復した。それ以来今日まで週末の山登りを欠かしてことがないと
いうのである。痩せ細った四十キロそこそこの身体で、山岳部の顧問をしつづけているのであった。
この先生の話は、虚弱体質で何かとハンディを負っていた彼に鮮烈な印象を与えたことは言うまで
もない。
又、こんな教師もいた。同じく社会科の教師であるが、三十才代の比較的若手の先生で細身の
スマートな人であった。多少鼻にかかった声だけは気になったが、長髪を真中から分けて一見壮士風の
感じの情熱的な教師であった。旧制中学のボロ校舎そのままであったから高い教壇があり、椅子に座った
ままでも十分に全身を眺めることができた。
その先生はなぜか教科書を使わないで、大学並みの講義をした。大学並みというのは、一年間、
イギリスの労働組合の創立にかかわる「フェビアン協会」についての講義が続けられたからである。
大半が大学進学する高校の「一般社会」で、誰もが受験のための勉強をめざし、甚だしい場合はそれ
以外の目的のない者までも在学している学校において、なぜ一国の労働運動の草創期の講義だけで済ま
せたのか、今もってわからない。
籍は夜間定時制にあって、昼の方には併任で来ていたらしい。先生は受験指導は眼中になく、あえて
このような実験を試みたのか。とすると、受験体制に対する批判が背後にあったとも受け取れる。
受験に必要な勉強は各自がやればよいと割り切っていたのか、あるいは各自でやれるはずだという
信頼感があったのか、その辺は分からぬ。とにかく、今思えば大変な冒険である。一年生ということ
もあって、生徒の方も不満一つ言わなかった。言わないのが又誇りでもあった。
講義は自分のノートによるときもあれば、部厚い参考資料によるときもあった。
後者の場合、資料に相当する部分をゆっくり音読して、ノートに筆記させた。部厚な資料といって
も年間を通して、同じ本一冊だけであったから、あるいは「フェビアン協会」の成立に関する論文で
先生のタネ本であったかも知れない。黒板は椅子に座ったまま手の届く範囲でしか使用しなかったから、
ほとんど耳で聴いてノートをとらなければならなかった。型破りと言えば型破り、果たして先生の
意図は何であったのか、ついぞ聞かずじまいで終わった。せっせとノートをとった記憶だけで、
内容は高度でどの程度理解したものかわからないし、今は思い出せない。それでも先生の講義の情熱
だけは忘れない。先生が専門的に研究されていたのかどうかは不明である。口角泡を飛ばす、という
けれどもまさしく茶が入ればツバを飛ばして講義をしたのである。
以上、三人の授業にくらべ、今彼が専門としている国語の授業はどうであったか。
現代文、古文、漢文と三年間のうち計五人の先生に習ったが、丁寧に教えてもらったわりには特徴の
ない授業だった。
古典の大半が訓読注釈で終わっていたし、現代文も注釈の域を超えることはなかったし、まとめとして
作者、作品の背景についての説明が加わる程度であった。現在彼がやっている授業もほとんど変わらず、
忸怩たる思いをし、ここに至って筆も渋るというものだ。
「たかはた文学11号 1985.8.19」
編集者注) 橘 朱果 は東濤会会員 富樫 徹君のペンネームです。