鹿野道彦氏の寄稿文を発見    令和4年7月2日

 令和4年7月2日は朝から猛烈な暑さだった。私は別荘などは持っていないのでこのような
時は高い山の涼しい空気を吸うのが一番と考え上山市の蔵王坊平へエコーラインを通っての
ドライブと決め込んだ。
 坊平は標高900メートルほどの高原なのでいろいろのスポーツが楽しめるし森林浴やワラビ採り、
草花の鑑賞、ウォーキング等が出来る夏には最高の地である。
 さて、下からここに来る途中にエコーラインから蔵王温泉へ分岐する蔵王ラインがある。
 2路の分岐ボイント一帯はホテルがあり昔は一種の休憩ポイントになっていた。
 分岐地点の東側はホテルになっていてその向かい側の広場に小さな瀟洒なたたずまいの建物がある。
 ここは昭和38年3月31日まで存在していた蔵王鉱業褐o営の蔵王鉱山の歴史資料館である。
 以前に何回か訪れたのだが入るにはエコーラインを下った所にある猿倉ヒュッテの人に申し込んで
手続きをする必要があるので面倒と思い入る機会がなかった。
 所が今日は建物の前の庭の雑草刈りをしている人がいたので入れますかと問うと「どうぞ」という
言葉があった。




 さっそく入って室内を見ると精緻な蔵王坊平一帯の地形モデルや採鉱した鉱物の現物、硫黄の巨大な
塊等の資料が丁寧に展示されていた。
 その中に「蔵王鉱山の思い出 第一集」という冊子があった。パラパラと冊子を読んでいたら何と思いが
けなく鹿野道彦という名前が目に入ってきた。
 題名は「軌跡は続いていく 〜蔵王鉱山閉山50年に寄せて」という文であった。
 彼の父君の鹿野 彦吉氏が携わっていた蔵王開発に伴う蔵王観光開発株式会社は運営の面では
蔵王鉱山に多くの援助を受けながらの事業推進であったので鹿野道彦君も蔵王鉱山への感謝の意を
込めての寄稿文になったのだと思う。
 この文章にはあの大きな遭難事故として昭和31年3月15日に発生した山形県民に衝撃を与えた英国航空の
ウイリアム・クラーク氏と上山の阿部虎次氏との遭難事故のいきさつも記していてくれていた。
 読んでみて改めて私もあの遭難事故が大きな影響を山形県に及ぼしたことを知らされた。
 思えば私が今いるこの地はかつての蔵王鉱山の中心地でここに2000人近い人々が生活していたことを思うと
 改めて鹿野君の文章に引き込まれてしまった。
 この文書は是非東濤会の皆さんには読んで欲しいと思い記事としました。
 そして一度は皆さんもここ蔵王鉱山歴史資料館を訪れてみて下さい。土日、祭日は開けるようにしていますとの
 ことでした。
 以下に彼の寄稿文を載せます。







  以上
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