被災地慰問 宮城県南三陸町・気仙沼、岩手県陸前高田
平成23年9月13日
山形市の私の町内にも福島県、宮城県からの被災地からの避難者の方々が引っ越して
きている。
同窓生にも被災者になった人は多くいる。
いろいろの被災者と語ってみるととにかく現地を見てください、そしてその悲惨さを
実際に感じて大変さを外に訴えて下さい。そうしないとこのことが忘れ去られてしまう。
そのためにはまだ復興が十分に進んでいない今訪れて欲しい等々の声が多くありました。
私はある団体に属していますがこの会員間でも今訪れては迷惑になるので行くべきでは
ないとの声が多くありました。
私は何を言うか、全部片付いた後の綺麗になった時に行ってみたってこの悲惨さを理解で
きないぞ、今現地を訪れ慰問しようと訴えた。私は何回も被災地を訪れているが多くの人は
ただテレビの画面のみを見て大変だねと言っているがそれでは何も進まない。
とにかく現地は復興に向けての進みは何も無いのだ。瓦礫が片付いただけで生活が出来る
基盤なんか何も無いのだ。このような事実を認識し早く復興が進むように多くの方面に訴えて
あげることが私たちに出来ることであると思う。
このようなわけで平成23年9月13日に団体として被災地を慰問することとなった。
山形から仙台を経由して、南三陸町、気仙沼、陸前高田を訪れることにした。
最初に訪れたのは南三陸町である。私は昨年ここを通ったのだが今回訪れてみて驚いた。
とにかく何も無い、あの海沿いの細い道の両側に立て込んで立っていた建物が全て無くなり
更地になっている。車は波にもまれたためであろうかぐちゃぐちゃの状態である。
このような状況が延々と展開している。全員言葉が無かった。
次の写真はニュースで大きく報道された防災対策庁舎である。
津波の時に屋上には町長をはじめ職員約30名がいたが津波はこの屋上まで押し寄せ町長も
このアンテナポールにしがみつき津波に耐えなんとか助かったのだが第一波で約20名が流
され町長を含む約10名だけが助かったのだった。津波は7回も襲ってきたとのこと。
誰もこのような3階の上まで津波がくるなどとは予想出来なかったことだろう。
この建物は津波被災の資料として残す方向だったが9/20のニュースによると保存を断念して取り
壊すことになったとのこと。
犠牲者の家族からするといつまでもこの建物を見れば心が痛むであろうし町長も判断に困った
ことであろう。
我々は建物の前で献花をし黙祷を捧げたが周りの静かな世界に囲まれただただ心が痛む思い
であった。
次の写真でも分かるが6ケ月経過してもまだこの状況である。
写真の向こう側が海であるが果たして左側の山まで逃げることが出来た人などは少なかった
ことと思う。私がそこの住民であったとしたらやはり間に合わなかったと強く感じた。
何しろ津波の早さは時速110キロとのこと、とてもとても敵わない。
地盤が大幅に沈下した結果被災地には海水がそのまま残り大きな障害になっていた。
次に気仙沼の市内に入ってみた。ここも大変な惨状であった。
私はこの気仙沼にはふかひれ祭りなどで良く魚を食べに来る私にとって癒しの地であった。
しかしここも致命的な被害を受けていた。
魚の加工場の面影は無い。
次の写真は町中の繁華街の商店街だが全くの廃墟である。これでは商売はもう出来ない。
このような建物がほとんどだ。
町内は70センチ前後の地盤沈下により海水が抜け出ていかない。
衛生的にも大きな問題である。
こんなでかい船が町の中に転がっている。
これを解体して運ぶにも巨額の費用がかかるので先行きは明確ではないとのこと。
気仙沼市役所で担当からお話を聞いた。非常に生々しい話で非常時における行動等には
多くの学ぶ事を得ることが出来た。
市内では岸壁の市場近くの魚店は開業していたが種類は非常に少なかった。
店内はガランとしている。
でも我々は出来るだけ沢山の買い物をした。
我々は次に岩手県の陸前高田へと進んだ。
ここは海辺までは10万本の松林で埋め尽くされていてここの松原は大変有名であった。
私は昭和50年頃に子供達を連れて海水浴をさせにここまで来た事があった。
そのときこの松林の広大さに驚いたのだが今回はまたまた驚いた。
松が一本しか残っていない。
写真の松がテレビ報道で有名になった一本松である。
とにかくむここが松で覆われていた土地であるとは信じられなかった。
次にかって市内として該当していた場所に行ったのだがあまりの惨状に愕然とした。
とにかく何も無くなっていた。
この写真の地点が高田の町だったのである。信じられなかった。
ひどいとは聞いていたがこれほどとは思わなかった。
これこそ現地に来て見ないと分からない事実の一つである。
以上
最後に
我々は最初に述べた動機から被災地を巡ったのであるが来て良かったという気持ちで一杯で
ある。
やはり来て見ないと現実は分からない。テレビに映った画面は現実のほんの一部である。
被災の現場に立つと物体が無いのは当然だがそれよりも音が無いことの方が不気味であった。
シーンとしたム無彩色の世界の中にポツンと点のような人影が黙々と動いている。それを見て
いると無力感に陥ってしまう。
さて我々が今後為すべきことが大切である。今回分かったことは被災地の復旧・復興は何も進ん
でいなかったということである。6ケ月経過しても現実は何も進んでいなかった。表面的には瓦礫が
一部片付き報道でその綺麗になった様子を放送していたが現実の生活レベルに立つとそれは幻で
あった。人間の生活レベルの復旧は皆無であるし今後の進みも不透明であった。
行政担当者は自分を犠牲にして頑張りボランテイアも全国から集まり助け合っているのだが所詮
焼け石に水の感が強い。どこでも聞くことは国の動きが非常に遅くどうしようとしているのかが全然
見えないということであった。
今回荒廃した被災の現場に立って感じたことは、この現場には多くの家が建ち、多くの人たちが
活動していたのだ、その人たちは今どこで、どのような生活をしているのだろうかということであった。
私たちはこれからいろいろの方面にこのような現実を訴え一刻も早い復旧・復興へ近づくように
後押ししていくことが責務である。
忘れやすい日本人であるからこの大惨事も3年もすれば忘れ去られることだろう。
そうならないように現場を見た人たちは何時までもこの大惨事の事実を被災者に代わり訴え続けて
あげなければならないと強く感じました。
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