ZOOMミニ同窓会第91回例会開かる  令和6年10月29日

 この会も91回となったことを知ると時間の経つ速さを頭蓋骨にガーンと響く
 形で思い知らされる。本当に早いなぁ。
 さて、今回の皮切りの話題は最近の宿泊事情だった。どこに行っても高い料金と
 満員の状態だとのこと。山形市の場合はビジネスホテルも込み合っている。これは
 恐らくビジネス用の利用ではなく観光地へ向かうときの宿泊のみの利用形態が
 多くなっていることにもあるのだろう。
 蔵王温泉や銀山温泉なんか地元の我々は泊まれなくなっている。こんな話題で
 始まった。次はやはり食い物の話となった。ヤツガシラと菊芋の違いや里芋、特に
 山形の悪戸芋などの特徴などについて地元顔負けの話が飛びかった。
 次は切実な定額減税の現状報告が詳しく語られた。

 次は年の、いや、年齢の話となった。全員83歳かと思ったらまだ82だと威張る
 人が居た。
 いや、いや、やはり82歳は貴重だ。大事に過ごしてほしい。数か月とはいえ
 大いに威張って欲しい。
 次はやはり歴史の話だ。今回は山寺の円仁さんの話となった。
 慈覚大師としての名よりも円仁さんの名の方で山形の人には親しまれている。
 彼の死については多くの謎がある。昭和23年に山寺の断崖絶壁に慈覚大師の
 入定窟として伝えられている地があり、そこの発掘調査が行われた。
 その結果、岩窟から人骨五体分、円仁のものと思われる頭部の木彫像等が
 見つかった。
 更にお棺は金箔で飾られた立派な木棺でありました。
 この発掘がこのように遅い昭和の時期となったのはこの入定窟が断崖絶壁の途中に
 あり、樹木に覆われ人目につかず人々の記憶からも忘れ去られていた地だった
 ことにあります。
 一般に亡くなったのは比叡山と言われていますがここ山寺では昔からここで亡くなった
 と言い伝えられています。

 とにかく行動派の人間で会ったようです。中国では一日40キロを平気で歩いたそうです。
 山寺に来るまでには高畠の一念峰、山辺の奥地岩谷にも籠っていたようで多くの
 逸話をその地に残しています。昭和50年頃までは一念峰の下に庵がありました。
 今はありません。一念峰(地図には1年峰の記載の時もある)については先日メールで
 ホームページに掲載したことを伝えましたね。
 岩谷はドラマおしんの故郷として一時多くの人が訪れました。現在も岩谷観音堂があり
 目の治療の快癒祈願の念仏講が存在しています。
 奇しくもここ岩谷からまっすぐ真東に肉眼で見える地が山寺なのです。
 とにかく円仁が活動した場所はどこも奇岩怪石が聳えています。これは私だけの考え
 なのですが円仁はこのような岩がゴツゴツと存在する荒れた地が宗教教義を極める
 には良い環境ととらえていたのではないでしょうか。
 実際に円仁がさまよった地域を訪れてみると理解していただけると思います。
 何年か前に皆さんと訪れた宮城県の盤司岩地域も円仁の活躍の場でした。
 昭和38年に岩谷出身の子供が山形工業高校に入学しました。
 何人かの先生と家庭訪問に行ったのですがリヤカー一台がやっとの道が片側断崖の地に
 くねくねとうねって続き怖い思いをしたことを覚えています。今は別ルートで立派な舗装道路と
 なっています。 生徒はもちろん下の平地の町長崎に下宿をしてそこから学校に通って
 いました。何故、今は道路が立派になったかというとこの地が産業廃棄物処理の地になったことも
 一因かなと思います。いや、実は美味しい和合りんごの主生産の地になったことが主因です。
 今では山の中に道が迷路のように作られました。今や昔の秘境というイメージはありません。



最後は人間にとって最も大切なお墓の話で盛り上がりました。それぞれの地でお寺との
関係が複雑化しておりみなさん対応に苦労しているようでした。 
今回もこのような多くの幅広い話をしていたら時間切れでアウトとなってしまいました。

 
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