報道されなかった被災地 宮城県名取市
 閖上(ゆりあげ)港を訪ねる

                                             平成24年10月4日
  
私は町内会や関連組織の役員もしている。何回か被災地を訪問することになる。

  今回は表記の地を訪問した。
  ここは海に面しているが全く高い場所が無い土地でいざ津波となれば逃げる場所は全く
  無い土地だ。

  ここは震災後に私が各地を訪問してみて全く何も無くなっている事実一番驚いた地であ
  った。
  今回は山形市の北部地区町内会連合会の福祉関係、民生委員、それに町内会長の皆
  さんのグループで市の福祉バスを利用しての訪問となった。
  震災前の港の周辺は住宅がビッシリと並び美味しい魚料理を食べさせてくれる店が並ん
  でいた。私も美味しい寿司やに行ったりしていた。
  それが何も無くなったのであるるまったくの更地になり家の土台だけが並んでいる状態
  のままである。
  震災から一年半が過ぎても現地は何も復旧なんかしていない。瓦礫が無くなっただけで
  ある。
  我々の今回の目的はこの復旧が進まない現状を再認識し多くの人にその現状を訴えて
  いくことである。
  やはり多くの人が被災者に代わり外へ訴えていかなければ前進は無い。
  次の写真は閖上港の岸壁があった地点である。もう何も無くガランとしている。

 

 閖上港近辺で高い地点は唯一この小山である。でも高さは6メートル位しか無い。
 山の名前は日和山という。

 でも震災前はここに神社があり目立つポイントであった。
 この地を訪れた人は必ずここを登り丘の上から被災地を見つめる場所になっている。
 我々もここを登り全員で黙とうを捧げた。


 神社の合ったところには神事の碑板があるだけである。周囲は全て空白の地である。



 ここには震災前にはびっしりと家が並んでいたのだ。信じられない光景だ。
 津波はこの山をも飲み込んだがここの木にしがみつき助かった人がいたとのこと。
 おそらく左の松の木だったのだろう。


 閖上の地の津波被害は次の写真のプレハブ施設で見られるようになっている。
 この地には以前は幼稚園があった地である。


 室内の資料展の写真に津波被害前の写真があった。
 我々が行った場所は写真の下部の地域である。家が密集していたのが分かる。


 次は被災した地点をマップ下写真である。ほとんどの地域が被災したことが分かる。


 さてここからが本論である。
 当地区での被害は大きい。死者911人、行方不明者42人。非常に大きい犠牲者
 だ。
 なぜこんなに大きな被害を受けたのだろうか。
 地域の方に聞いてみた。すると思いがけない答えを聞いた。
 地震が発生した時には皆津波を想定した。それぞれの手段で避難所に行った。
 しかし、防災放送による津波警報は鳴らなかったし市の広報車も来なかった。
 そこで住民の多くは津波は来ないと判断し大事な物を取りに家に戻った人が多か
 った。
 その空白の時間に突然津波が見えたとの声が上がった。
 急いで避難所(といっても高い場所は少ないのだが)へ移動出来る人は移動したが
 高齢者や歩行困難な人は間に合わなくなった。
 何しろ津波は海岸から5キロも遡ってきたのだ。
 とても逃げる手段は無かった。この結果多くの犠牲者が出てしまったのだ。
 さて、なぜ防災の警告が出なかったのだろうか。
 一つは防災無線の故障が原因である。しかし市側ではこのことが分からなかった。
 もう一つの問題は名取市の本部では防災無線を通して警告を放送していたのだ。
 しかし防災無線が故障していたことは分からなかった。
 更に防災無線で放送したのだから避難したと考えて特に広報車を出すことはしなか
 った。 もっとも広報車を出しても現場までは行けなかったが。
 私が聞いた住民は皆津波に関する市からの警告、警報は何も聞かなかったと言っ
 ていた。
 これは天災ではなく人災であると考えざるを得ない。
 住民の方たちと私たちは語り合ったが住民の方はこのようなことを他所の人に聞い
 てもらいたいのだと分かった。どこにもやり場のない悔しい思いを聞いて貰いたいの
 だと分かった。
 私たちはこのように実際に現地に行き、現地で地元の方と語り合い、話を聞き、その
 実情が風化しないように自分の地で他人に伝えることが私たちに出来る務めだろうと
 思う。
 何回も言ってきたが一番悪いのはじっと自分の家から出ることもせずテレビで惨状を
 見て慨嘆していることである。
 テレビでは実際の事は放送されない。
 今回こんなに大きな被害を閖上は受けたのに報道されたのは石巻や気仙沼方面だ
 けで閖上の惨状報道はほとんどされなかったでないか。何故だったのか。
 実際に現地に来て見て分かるが復旧などは何も進んでいない。
 提供された避難所は今年の夏の暑さのもとではとてもつらかったとのこと。
 我々の出来ることはこの事実を日本中に伝えてこの惨状が忘れ去られないように見守
 っていくことだと思う。
 
     
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