被災地 亘理町、閖上港の現状を確認する旅
                                              平成26年1月18日

 平成26年1月18日の山形市は雪の無い天気になった。
 例年なら市内全体が雪に覆われ山を越えて県外に行こうなどという気が起きないのが
 常であった。
 このことは当ホームページの「山形の今の様子を写真で紹介」の項に数年分の写真が
 掲載しておいたのでそこを確認していただくと良く分かると思う。
 さて、1月18日は良く晴れた天気になった。いつも気にかかっていた渡里町の復興は
 どうなっているかを確認したくなった。
 そこですぐ車で現地に向かった。このような時は燃費の心配の少ないハイブリッド車は
 助かる。
 さて、最初に亘理港にある海浜ショップを訪ねた。ここは平成24年にも訪れ存在は確
 認してあったが今日見ると前より明るい存在に見えた。土曜日ということもあり多くの
 客が来ていた。県外ナンバーの車が多くここの存在が知られているのだなと思った。


 店の中も綺麗で活気があった。


 一番は魚の種類の多さと安さである。
 山形市ではとても手に入らない魚介類が大変安い価格で売られている。
 私も夜の鍋料理のためにすぐに食べられるように加工されたタラ料理の
 食材を買った。大人4人は十分たべられそうな量でも価格は300円だった。
 山形市の冬は魚がたかくなるので山形市在住の私には信じられない価格だ。
 すぐに夜はタラ鍋にして熱燗で料理を楽しんだ。
 
 店の隣は弁当やさんだ。ホッキ飯弁当、鮭いくら飯弁当、牡蠣の串焼き、ホッキ貝等の
 食材から好きなものを選べる。
 私は迷わずにホッキ飯弁当を選んだ。店内で食べると熱い魚のあら汁が無料でいただ
 ける。至福である。



 さて、肝心の復興の話に入る。
 あの活気のあった亘理の町は今や空虚な空間になっていた。何回来てもこの"無"の世界は
 変わっていない。
 私の知り合いだった方の店は依然として更地であった。
 亘理港観光の目玉であったホテルは以前のまま放置されたままだった。


 ただホテルの海側に新しくコンクリートの堰堤を築く工事が進行中だった。
 この辺は震災前は松林で覆われ前はすぐ海になっていた所だ。
 でもこれ以外の復旧工事はなかった。


 このホテルの一部に津波の高さを示す表示板があった。
 表示板の下のドアが人の出入り口のドアである。高さは180センチはあるだろうから
 津波の高さが分かるでしょう。


 このエリアの工事は3月で終わるとのこと。それで大丈夫?。
 

 岸壁の工事も進行中であった。よく見ると人がコツコツとやらねばならない部分も多く
 大変だなと感じた。


 周囲は何も無い。人は住めないよ。


 以上が現在の亘理港の現状であります。一日も早い復興を心から願うものです。


 次に亘理の北方にある閖上(ゆりあげ)の港を目指した。
 閖上の町での犠牲者数は1027人、不明者数119人である。
 震災前の町の人口が5612人であったのだからいかに被害がむ大きかったかが分かる。
 この閖上港の被災の状況については次のホームページをご覧いただくとよく理解できる。
 当時のことがまざまざと表現されており本当にこころが痛む内容である。
 読んでいて涙が止まらなくなります。
 http://memory.ever.jp/tsunami/shogen_natori.html


 やはり最初に訪れる所はこの日和山である。
 この山には神社があったが津波で流され、その後に神社が復興されている。
 今も多くの方たちが慰霊に訪れている。この日もバスやタクシーで大勢が参拝されていた。


 山の上はきちんと整備されていた。
 ここからは閖上の町が一望できる。ただし周囲は廃墟ばかりである。
 一軒の家も建っていないし、建てる気にはとてもなれないだろう。


 閖上の港にも行ってみた。
 前回来た時は岸壁が崩壊したままであったが今回は岸壁の修復がなされ漁船が
 係留されていた。
 しかし、獲れた魚を処理する施設は無いので復興はまだまだであろう。


 ここ閖上の地には私なりの思いがあります。
 私が以前勤めていた青年の家に閖上町の学校から夏休みの研修として小学生の団体
 申し込みを受けたのです。
 私たちは最初ゆりあげと読めなくて申請者に問い合わせたりして会話をしたことがあり
 ました。
 そのようなことで私に閖上の地は強い印象を与えてくれていたのです。
 被災の報を見たときに私の脳裏に浮かんだのはあの時の子供たちの姿でした。
 全員無事だっのだろうか、是非無事であってほしいと強く念じたものでした。
 今回も訪れてみて何も変わっていない状況に心から残念に思いました。
 
 聞くところによると復興の方針でいろいろな対立があるとのことですが何とか一日も
 早くあの昔の活気ある閖上の町を取り戻してほしいと強く願うものです。
 そのようなことを思いながら被災地を後にしました。

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